瞳のなかに映る、消えない灯火

こんにちは。 ふと立ち止まって、昔のことを思い出す時間はありますか? 忙しい毎日を過ごしていると、記憶の引き出しはずっと閉まったままになりがちですが、ある瞬間、ふとしたきっかけでその引き出しがスッと開くことがあります。

私にとってその「きっかけ」は、最近、自分の子供の瞳をじっと覗き込んだ瞬間でした。

「澄んだ目」という、最初の贈りもの

私がまだ小学生だった頃、祖母はよく私の顔をじっと覗き込んでいました。 「あんたの目は、本当に澄んでいて綺麗だねぇ」

覗き込まれると、祖母の穏やかな顔が私の瞳に映り、私の小さな姿が祖母の瞳の中に映る。その数秒間の沈黙と、至近距離で見つめ合う時間は、子供心に少し照れくさく、けれど言葉にできないほど絶対的な安心感を与えてくれるものでした。

当時はその言葉の意味がよく分からず、ただ褒められているのが嬉しくて、はにかむことしかできませんでした。でも今になって思うのです。祖母は私の瞳の奥に、一体何を見ていたのだろうかと。

「見る」という行為は、単に視覚で情報を捉えるだけではありません。そこには、相手を慈しみ、肯定し、その存在を丸ごと受け入れるという、深い「まなざし」が込められていました。祖母が私に向けたその温かな視線は、長い年月を経てもなお、私の中に「自分は大切にされている」という揺るぎない自信として、灯火のように残り続けています。

何かを創ること、表現することも、本質的には「まなざし」から始まるのかもしれません。対象をどう見つめ、その奥にある何を掬い上げるか。祖母からもらった「澄んだ目」という言葉は、私にとって人生という物語を真っ直ぐに見つめるための、最初で最高の贈りものだったのだと感じています。

混ざり合う、自分だけの「ルーツ」

私の生い立ちを振り返ると、そこには常に祖父母の存在がありました。 両親が共働きで朝から晩まで一生懸命働いていたため、私は祖父母に育てられたようなものでした。

挨拶の仕方、靴の揃え方、人に対する丁寧な振る舞い。そんな「人としての基本」は、厳しく教えられたというよりは、祖父母の静かな背中を見て、自然と自分の中に染み込んでいったものです。

面白いのは、その影響が「食べ物の好み」にまで及んでいることです。 我が家は祖父母を除くと4人という、決して大きくはない家族構成でした。しかし、食卓を囲むとき、私だけが少し違う方向を向いていました。両親や兄弟が好むような、その時代の流行りの味付けよりも、私は祖父母が食べているような、出汁の効いた煮物や、素材の味がする素朴なものを「美味しい」と感じていたのです。

家族の中で、自分だけが少し渋い味を好んでいる。その小さな違いは、子供時代の私にとって、自分が祖父母に近い存在であるという、誇らしいような、少し特別な絆を感じさせるものでした。

今の私を形作っているのは、親から受け継いだものだけではありません。祖父母が大切にしていた古い習慣や、一緒に過ごした穏やかな空気感。それらが地層のように重なり合って、今の「私」という人間ができあがっています。創作も同じかもしれません。新しさだけを追うのではなく、自分の中に眠る「古い記憶」や「懐かしい感覚」を大切に育てることで、作品に深みが生まれる。私の中に流れる祖父母の感覚は、今も大切な、揺るぎない根っこになっています。

土鍋の向こう側にある、6人の団らん

昔の記憶を辿ると、ある決まった情景に行き着きます。 それは、家族6人が揃っている夕暮れ時の居間。 外の空気が少し冷たくなると、近所のお蕎麦屋さんから、出前の「鍋焼きうどん」が届きます。

運ばれてくるのは、使い込まれた重みのある土鍋。 蓋を開けると、真っ白な湯気が勢いよく立ち上がり、一瞬で部屋中が出汁の香りに包まれます。グツグツと音を立てる土鍋の中には、エビの天ぷらやお麩、卵が綺麗に並んでいて、それを見るだけで心がホッと解けていくようでした。

テレビでは、私の大好きなアニメが流れていました。 家族6人で肩を並べて、熱々のうどんをすすりながら、アニメの展開に一喜一憂したり、何気ない会話を交わしたりする。あの時間は、世界で一番平和で、温かな場所でした。

土鍋から立ち上がる湯気越しに見た、家族の笑顔。 それは、今の時代には少なくなってしまった「混じり気のない団らん」の象徴だったように思います。私たちは今、便利で豊かな時代に生きていますが、あの土鍋一つで家族の心が一つに結ばれていたような、満ち足りた感覚をどれだけ大切にできているでしょうか。

「団らん」とは、単に一緒にいることではありません。同じ温もりを感じ、同じ香りを共有し、同じ時間に身を委ねること。そんなシンプルなことの中にこそ、表現の原点があるような気がしてなりません。

巡りゆく時間のなかで、今思うこと

ふと考えてみれば、私はもう、あの頃の祖母と同じくらいの年齢になりました。 「おばあちゃんは、今の私の年齢で、もう孫(私)がいたんだな……」 そう思うと、なんとも言えない、しみじみとした感情が込み上げてきます。

当時の私にとって、祖母は完成された「導き手」でした。何でも知っていて、いつも穏やかで、私を正しい方向へ導いてくれる大きな存在。でも、いざ自分がその年齢になってみると、中身はあの頃とさほど変わっていない自分に驚き、少し戸惑いも感じます。

私は、祖母が私にしてくれたように、今の子供たちを導けているだろうか。 澄んだ目で見守り、大切なことを背中で伝えられているだろうか。 時々、そんな問いが頭をよぎります。

けれど、完璧である必要はないのかもしれません。 祖母が私にそうしてくれたように、ただ、愛おしそうに子供を覗き込むこと。一緒に温かなものを食べ、笑い合うこと。そんな、言葉にならない「心のバトン」を繋いでいくこと。それが、世代を超えて「受け継ぐ」ということであり、創作という行為の本質にも繋がっているように思います。

昔を懐かしむのは、単に過去を懐かしんでいるからではありません。 あの温かな記憶を、今この場所で新しい形にして、次の世代へ手渡していくため。 私が感じたあの「土鍋の湯気」のような温もりを、表現を通じて誰かに届けることができたら。

そう願いながら、今日も私は、自分の目の前にある世界を、あの頃のような澄んだ瞳で見つめ直してみたいと思います。 あなたの瞳には今、どんな懐かしい景色が映っていますか?


このブログを読んで、少しでも写し絵と、創作の奥深さに興味を持っていただけたら嬉しいです。ぜひ、私たちの活動や公演(現在お休み中)にも注目してください。 現代影絵プロジェクトのウェブサイトはこちら: https://utsushie.org/ また次回の「写し絵の話しあれこれ」でお会いしましょう!