復元コピーが映し出すもの、ミステリー・オブ・ツタンカーメン展

先日、横浜で開催されていた「ミステリー・オブ・ツタンカーメン展」へ行ってきました。

この展示会の最大の特徴は、並んでいるすべての至宝が、エジプト・カイロ博物館にある実物ではなく、最新のデジタル技術によって再現された「高解像度スキャンによる復元コピー」であるという点です。

「復元コピー」と聞くと、もしかしたらどこか物足りなさを感じる方もいるかもしれません。しかし、実際に目の当たりにしたその姿は、まさに圧巻の一言でした。最新の科学技術を注ぎ込んで作られたそれは、単なる「形を似せた代用品」などではなく、質感、細かな傷、色のくすみまでが驚異的な精度で再現されており、到底コピーだとは思えないほどの作り込みだったのです。

むしろ、復元品だからこそ実現できる展示の面白さがありました。本物の至宝であれば、保存のために照明を極限まで落とした暗い部屋で、厳重なガラス越しに遠くから眺めるしかありません。しかし、この展示では、黄金が最も美しく映えるライティングが施され、驚くほど間近でその造形を観察することができました。何千年も前の職人が込めた情熱が、現代の技術という「光」によって剥き出しにされているような、そんな不思議な迫力を感じました。

10年前、上野での「本物」との出会い

この鮮やかな復元品を見つめながら、私の脳裏にはちょうど10年ほど前に東京・上野で開催されたツタンカーメン展のことが蘇っていました。

実は10年前のその時も、私はこのブログにツタンカーメン展についての記事を書いています。あの時の展示は、今回とは異なり、エジプトから運ばれてきた「本物」の至宝が並ぶ貴重な機会でした。当時の記事を読み返すと、数千年の時を越えて目の前に存在する実物が放つ、あの独特の重々しい空気感を思い出します。

しかし、当時の展示でひとつだけ心残りだったことがあります。それは、誰もが期待していた「黄金のマスク」が来日していなかったことです。さらに数十年前のツタンカーメン展では来日していたそうですが、10年前の上野では残念ながら叶いませんでした。本物の至宝を目の当たりにできる素晴らしさはありつつも、どこか心の片隅に「いつかあのマスクを見てみたい」という宿題が残ったような、そんな記憶があります。

10年という歳月が変えたもの

当時、私は子供たちを連れてその長い列に並びました。親心としては、本物の歴史の迫力を感じてほしかったのですが、当時幼かった子供たちにとって、黄金のマスク不在の薄暗い展示室は少し退屈だったのかもしれません。

長女は一生懸命に展示を見てくれましたが、他の下の子供たちはといえば、歴史のロマンよりも美術館のすぐそばにある遊園地が気になって仕方ない様子でした。視線の先にはカラフルな遊具。結局、私と一緒にファラオの静寂を見守るのではなく、外の明るい陽光の下でメリーゴーランドに揺られ、甘いポップコーンの香りに包まれることを選んだのです。

それから10年という歳月が過ぎ、今回の横浜。かつて遊園地へ走り去っていった子供たちが、今は誰に促されることもなく、自分の足で展示のひとつひとつを熱心に巡っていました。そしてそこには、10年前に上野で見ることができなかった「黄金のマスク」が、精巧な復元コピーという形ではありますが、燦然と輝いていました。

10年前にはただの「古い金細工」にしか見えなかったであろう至宝を前に、今はじっと立ち止まり、一生懸命にその意味を読み取ろうとしています。「この装飾、どうやって作ったんだろうね」「この時代の王様って、どんな生活してたのかな」と、自分たちなりに歴史の断片を咀嚼し、語り合っている。10年経って、ようやく子供たちが全員揃って、あの日見られなかったマスクを見ている。その光景は、親である私にとって、展示内容と同じくらい、あるいはそれ以上に価値のあるものに思えました。

展示されているものは「複製」かもしれません。しかし、それを真剣に見つめる子供たちの眼差し、そして家族全員が同じ空間で同じ対象に向き合っているという事実は、間違いなく「本物」の時間でした。10年前、遊園地でポップコーンを頬張っていた小さな背中が、今は歴史の奥深さを感じ取れるほどに成長している。10年越しの宿題が、予期せぬ形で解けたような、そんな晴れやかな気持ちになりました。

影絵と「複製品」の共通点

私が携わっている「現代影絵プロジェクト」の世界も、ある意味では「投影」や「像」の芸術です。

影絵は、スクリーンという膜の上に、光と物体が作り出した「影」を映し出すものです。観客の目の前にあるのは、物質としての実体そのものではありません。光によって切り取られた、実在しない「像」に過ぎません。しかし、その「影」が、見る人の想像力と共鳴したとき、そこには実体以上のリアリティや、言葉にできない深い感情が宿ることがあります。

今回の「ミステリー・オブ・ツタンカーメン展」が教えてくれたのも、それと同じことでした。「そこに物理的なオリジナルがあるかどうか」という事実以上に、その表現が何を伝えようとしているのか、さらに受け取る側がそこにどんな物語を見出し、誰と共有するのか。それこそが、表現が持つ本当の力なのではないかと思うのです。

家族の楽しみ、横浜中華街の迷宮

さて、そんな真面目な考察を終えて会場をあとにした私たちは、やはり最後には賑やかな「現実」の楽しみへと向かいました。今回の横浜遠征、実は家族のなかでは「ツタンカーメン」と同じくらい、あるいはそれ以上に期待されていたのが、横浜中華街での食事です。むしろ、子供たちにとってはこれこそが半分メインイベントだったのかもしれません。

中華街という場所は、歩いているだけで感覚が麻痺してくる不思議な迷宮です。一つの肉まんにしても、表通りと裏路地では驚くほど価格が違います。

「あっちの路地は50円安い!」 「こっちの店は行列ができているから、絶対に美味しいはずだ」 「いや、こっちの店の方がセットメニューがお得に見える」

家族全員で店ごとの価格設定を真剣に読み比べ、右往左往。これこそが中華街の醍醐味ではありますが、あちこち歩き回って最後にお腹いっぱいになったところで、誰かがポツリと漏らしました。

「……ねえ、これ結局、最初から『食べ放題』の店に入っておいたほうが、金額的にも満足度的にもトクだったんじゃない?」

その一言に、全員で顔を見合わせて大爆笑。確かに、一品ずつ吟味して注文していった合計金額を考えれば、最初に見つけた食べ放題の店に飛び込んでいたほうが効率的だったかもしれません。

でも、いいんです。10年前なら人混みに疲れ、空腹で泣き出していたかもしれない子供たちが、今はこうして家族で相談しながら歩き回れる。そんな些細な、けれど幸せな「無駄」を楽しめるようになったこと自体が、今回の旅の大切な思い出になりました。

黄金のマスクに10年前の子供たちの面影を重ね、肉まんの香りに包まれながら「次は絶対に食べ放題にしよう」と誓い合った横浜の休日。かつての記憶と、今の感動、そして未来への小さな約束。表現の世界も、家族の形も、こうして積み重なっていくものなのだと、改めて感じた一日でした。

ツタンカーメン王墓が王家の墓同様に完全再現されていました


このブログを読んで、少しでも写し絵と、創作の奥深さに興味を持っていただけたら嬉しいです。ぜひ、私たちの活動や公演(現在お休み中)にも注目してください。 現代影絵プロジェクトのウェブサイトはこちら: https://utsushie.org/ また次回の「写し絵の話しあれこれ」でお会いしましょう!