写し絵と錦影絵

このサイトでも盛んに写し絵と称して幻燈影絵を紹介しているが、実は写し絵と呼んでいたのは江戸、東京での呼び名だった。
写し絵は大阪でも盛んに行われていて、ここでは錦影絵と呼ばれていた。

錦影絵の呼び名の由来は、もうお気づきの方もいらっしゃると思うが、錦絵から来ているのだと思われる。
使われていた道具は江戸と大阪では少し違うように見受けられ、錦影絵で使われている道具は写し絵と比べると風呂の大きさはほどんど変わらないにしても、種板の大きさが小さく見える。

私が見た物はほんの一部で、今は失われてしまった様々な種板もあっただろうと推測されるが、今見る事の出来る錦影絵の種板の感想は少し小ぶりのような気がする。
もしかすると大阪方面では小さな劇場を主に活動の場としていたのではないだろうか。そうすれば写し出す絵もそんなに大きくなくても客に見せる事が出来る。スライド部分が小さいと表現できる絵の繊細な部分に限界がるのではないかと思う。

それに比べ、写し絵の種板は少し大きく見える。錦影絵の種板よりは大分大き目だろう。
残っている資料に写し絵が演じられている絵があるのだが、ここでは結構な広さの会場で演じている様子が描かれている。
やはり写し絵は大きな会場で行われる事もあり、だんだん大振りになっていったのではないかと私は思っている。
しかし大きさで絵の繊細さが決まる物ではないのかもしれない。

写し絵の巡業は結構忙しく、使う度に種板も傷ついたり、色がはげたりしたらしいので、もしかすると修繕が簡単なように大振りになったと言う説も考えられる。小さい種板に色つけをするのは結構大変な物だ。それに大振りな写し絵の種板の中には駄作と言えるような荒い絵の物も沢山あったらしい。
種板の繊細さは、実は絵師の質が良いか悪いかで決まったようなと所もある。

資料が殆ど残っていない今となっては本当の答えが出ないのかもしれないが、もしどなたか知っている方がいれば是非ともご教授願えれば幸いに思う。
余談になるが、聞いた話によると大きな花火大会で花火が打ち上がる前時間に屋台船などで座興として写し絵が行われていた事があったらしい。私も自分で確認したわけではないので、何処の花火大会なのか、どんな風にやっていたかは皆無である。しかしながらそんな屋台船があったら是非とも乗ってみたい物だ。