「光を強くすれば、影もまた、その輪郭を露わにする」
最近、私は部屋のカーテンを新しくし、天井のシーリングライトを最新のものに交換しました。暗がりに慣れていた目に、新しい光はあまりに鮮烈でした。部屋の隅々までが白日の下にさらされ、視界は驚くほど明るくなった。しかし、その光が真っ先に映し出したのは、目を背けたくなるような「生活の影」——床に転がるゴミの山でした。
皮肉なものです。目が見えづらくなり、体が硬くなったと感じる日々の中で、私はかつてないほど「掃除」に精を出すようになりました。なぜなら、明るくなった部屋では、ゴミの一つひとつがまるで光を遮るノイズのように、あまりにハッキリと見えてしまうからです。
なかでも私を苛立たせるのは、子供たちが無造作に丸めて放り出した、白いティッシュの塊です。
神社を巡る足元に、落ちているもの
私の娘は、最近神社巡りに夢中です。友人と連れ立って、あきる野や近隣の古社を訪ね歩き、その静謐な空気を楽しんでいる。巫女のアルバイトもしてみたいと言うほど、彼女はその「清らかな世界」に惹かれています。
けれど、家へ帰ってきた彼女の足元を見て、私は溜息をつきます。 外で神様を拝み、心を清めてきたはずのその手で、彼女は平気でティッシュを丸め、床にポイと捨てる。何度言って聞かせても、彼女の心には響きません。「あとでやる」「そんなに汚い?」という無神経な言葉が返ってくるだけです。
もし、私がこの掃除の手を止めてしまったら、この家はあっという間に「ゴミ屋敷」へと変貌するでしょう。 新しいシーリングライトが照らし出しているのは、私の努力によって辛うじて保たれている「清潔」という名の危うい均衡なのです。
江戸の「再生」と、アメリカの「合理」
この丸まった紙屑を見つめながら、私はふと、江戸時代の「紙屑拾い」に思いを馳せました。
江戸という時代は、現代の私たちが忘れてしまった究極のリサイクル社会でした。驚くべきことに、当時の人々は鼻をかんだ後の紙さえも、丁寧に拾い集めていました。それを綺麗に洗い、繊維に戻し、「浅草紙」のような再生紙として再び市場に流していたのです。
当時の江戸っ子にとって、ゴミは「富」でした。鼻をかんだ紙一枚にすら、次の命が宿る価値があった。それは単なる節約ではなく、万物に対する「敬意」と、循環への「信頼」があったからこそ成立した美学です。
翻って、現代はどうでしょうか。 目の前のゴミを眺めていると、その正体の多くが「過剰梱包」であることに気づかされます。 商品はプラスチックのケースに入れられ、台紙に固定され、さらにビニールで包まれ、豪華な段ボールに収められている。中身を取り出した瞬間に、その体積の半分以上が、ただの「厄介なゴミ」へと成り果てるのです。
ここで思い出すのが、アメリカの合理性です。 アメリカでは、マカロニが紙箱に直接ザラザラと入って売られていることがあります。日本では「不衛生だ」「カスが入る」と敬遠されるかもしれませんが、彼らの理屈は明快です。「どうせ100度のお湯で茹でるんだから、箱に直に入っていようが問題ない」。
この「最後は茹でるから大丈夫」という潔い合理性が、今の日本には決定的に欠けている気がします。私たちは「過程」の潔癖さに囚われすぎ、過剰に包み、過剰に守り、その結果として、個人では処理しきれないほどのゴミの山を背負い込んでしまったのです。
掃除という名の「戦い」のあとで
「マカロニ直入れ」のようなシンプルさには、もう今の日本は戻れないでしょう。一度覚えた「過剰な丁寧さ」という麻薬は、私たちから「物の本質」を見抜く力を奪ってしまったのかもしれません。
私が明るいライトの下で目を凝らし、腰を痛めながら拾い集めているのは、子供たちの不始末だけではありません。この「過剰に包み、安易に捨てる」という現代社会が吐き出した、歪んだ文明の断片を一つひとつ拾い上げているのです。
掃除を終え、床からゴミが消え、新しいカーテンの隙間から柔らかな光が差し込む。 その瞬間、私はようやく一息つきます。 冷蔵庫から取り出した、キンキンに冷えたコーラを流し込む。 シュワっと弾ける炭酸の刺激が、掃除で強張った体と、ゴミに苛立った心を一気に洗い流してくれます。
「うまい……」
この一杯のコーラのために、私はまた明日もゴミを拾うのでしょう。 江戸の紙拾いのようにそれを金に換えることはできなくても、アメリカ人のように「茹でればいい」と笑い飛ばすことはできなくても、私はこの明るいライトの下で、我が家の「清浄」というプライドを守り続けます。
【シュワっと弾ける、今日の終着点】
光が強くなればなるほど、影は色濃く、生々しくなります。 過剰梱包の山も、丸まったティッシュも、今の日本の「豊かさ」が抱える影の正体です。 けれど、その影を一つひとつ手で拾い上げ、床を磨き上げる人がいる限り、家の中に光は留まり続けます。
次にコーラを飲むとき、私の目に映る床が、一点の曇りもないことを願って。 今日も私は、明るすぎるシーリングライトのスイッチを入れます。