継承の瀬戸際に立つ会津の祈り ―日本遺産「条件付き継続」の衝撃と新春の誓い―

遠い光に想いを寄せて

皆さま、あけましておめでとうございます。二〇二六年の新しい年がいよいよ始まりました。

「現代影絵プロジェクト」を日頃から温かく見守り、応援してくださっている皆さま、昨年は本当にありがとうございました。私たちの活動は、投影される光があって初めて、影としての物語を紡ぐことができます。本年も、皆さまと一緒に光と影が織りなす不思議な世界、その奥行きを深く楽しんでいければと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

私の新年は、例年通り、この東京の地で静かに始まりました。 私は東京で生まれ、東京で育ちました。しかし、一口に「東京」と言っても、皆さまが思い浮かべるような都会の風景とは少し趣が異なります。私が育ったのは、都心の喧騒からは幾分か距離を置いた、土の匂いや生い茂る緑が今も色濃く残る「東京の田舎」です。

冬になれば霜柱が立ち、風が吹けば木々がざわめく。夜になれば、街灯の届かない場所に深い闇が溜まっている。そんな場所で過ごしてきた私にとって、新宿や渋谷のビル群は、どこか遠い異郷の出来事のように感じられることがありました。この「都会の中の田舎」という中途半端で、けれど独特な静寂を持つ場所が、私の感性の原点です。

そんな私にとって、福島県会津若松市は、父祖の代から続くルーツが眠る、もう一つの大切な場所です。ですが、実は子どもの頃の私には、会津を訪れるチャンスがなかなかありませんでした。身近な場所としての東京の田舎で日々を過ごしながら、会津は大人たちが語る記憶の中にのみ存在する、どこか神秘的で手の届かない「遠い風景」として、私の中に蓄積されていきました。

「雪が降れば、お堂は真っ白な沈黙に包まれる」 「古い観音堂の木肌には、何百年もの祈りの跡が刻まれている」

断片的な言葉や、時折目にする写真。それらが、まだ見ぬ故郷への想像力をゆっくりと育んでいきました。直接肌で知る機会こそ少なかったものの、私にとっての会津は、東京の田舎で育ちながらも、心のどこかでずっと大切に守り続けてきた、一筋の光のような存在だったのです。

そんな会津との距離が大きく縮まったのは、大人になってからのことでした。 自分のルーツを改めて自覚し、ようやく自らの足でその土を踏む機会を得るようになった時、点と点が線で結ばれるような確かな手応えを感じました。会津に住む親戚たちと会い、言葉を交わし、同じ食卓を囲む。そこで語られる生きた言葉や、何気ない日々の暮らしの息遣いに触れることで、会津は「想像の中の風景」から、体温を感じる「本当の故郷」へと変わっていきました。自分がそこで育ったわけではないけれど、自分の中に流れる血がその土地の風や空気を確かに覚えている――。そんな不思議な充足感と、同時にその歴史を継いできた人々への深い敬意が、私の中で同居するようになりました。

例年、お正月をこの東京の田舎で穏やかに過ごしてきた私ですが、今年ばかりは、いつもの平穏な心地ではいられませんでした。こたつで暖を取りながら目にした一報が、私の心の奥底にある「原風景」を激しく揺り動かしたからです。


「条件付き継続」という重い問い

その報せは、文化庁から発表された日本遺産に関する総括審査の結果でした。 会津の人々が、戊辰の戦火を越え、幾世代にもわたって守り伝えてきた「会津の三十三観音めぐり」。それが、日本遺産としての「条件付き継続」という、極めて厳しい判定を受けたというのです。

日本遺産という制度は、単に古い建物を保存するだけのものではありません。その土地に根ざした物語を、いかに未来へと繋いでいくか、その「活用」の姿勢が問われます。今回の判定は、言葉を選ばずに言えば「このままの状態では認定を取り消す可能性がある」という、非常に重い通告です。

審査結果を詳細に読み解くと、そこには耳の痛い指摘が並んでいました。 「保存活動が行政主導に偏りすぎており、地域の熱量が見えてこない」 「今の時代を生きる人々にとって、その魅力が十分に伝わっているとは言い難い」 「このまま形骸化が進めば、文化としての生命力が失われてしまう」

これらの言葉は、遠く離れた東京の空の下で、故郷の安寧を無邪気に信じ込んでいた私自身の胸に、深く、冷たく突き刺さりました。ルーツを分かち合う親戚たちの顔が浮かび、自分に何ができるのかという問いが、新年の静かな空気を塗り替えていきました。

文化とは、時代ごとに誰かがその灯(ともしび)を見出し、新しい喜びとして共有し続けることで、次へと繋がっていくものなのだと思います。 大切に保存されることは、もちろん大前提です。しかし、それだけでは足りない。誰の心も動かさなくなった伝統は、たとえ形が残っていても、いつしか人々の意識から消えてしまいます。その灯を絶やさず、もう一度現代の光を当てていくこと。それが、今この時代にルーツを持つ者に課せられた、目に見えない責任なのだと感じずにはいられませんでした。


受け継がれる物語に「光」を当てること

会津の三十三観音。それは単なる観光資源ではありません。 江戸時代、会津藩主・保科正之公が巡礼路を整備したのは、単なる形式のためではありませんでした。遠くへの旅が叶わない庶民が、自分たちの住む里山で祈り、歩き、安らぎを得る。それは、人々の暮らしに深く根ざした「身近な楽しみ」であり、心の拠り所であったはずです。

私がこのプロジェクトを通じて向き合っている「江戸写し絵」も、本質は同じです。かつて人々を熱狂させた伝統が、いつしか静かな保存の段階に入りました。しかし、その中には今も、人々の心を揺さぶる「驚き」や「遊び心」が眠っています。今回のニュースは、私たちがもう一度その物語に目を向け、現代の新しい光を当てていくべき時期が来たことを教えてくれているように感じます。

東京の田舎で、都会の過剰な光と、田舎特有の濃い闇の両方を知って育った私だからこそ、見える景色があるのではないか。そう思うことがあります。 都会の真っ暗闇を知らない人々が、会津の古いお堂の、本当の「静寂」に身を置いた時、そこに何を感じるか。それは単なる不便さや古さではなく、自分の内面と向き合うための、贅沢な「余白」になるはずです。

余計な装飾を削ぎ落とし、光と影だけで構成される最小限の表現。それは、お堂の古い木肌に映し出される、実体のない光のようです。そこには、四〇〇年前の巡礼者が吐いた白い息の気配や、かつてそこを通り過ぎた無数の祈りの轍が、影となって重なり合っています。 「日本遺産が失われるかもしれない」という危機。それは、私たち表現者がその文化をどう見つめ直し、慈しんでいくかを問う、大切な契機なのだと感じています。


誇りとしての「ならぬものはならぬ」

会津には、有名な「什(じゅう)の掟」があります。その結びの言葉である「ならぬものはならぬ」は、今も会津人の心に深く根を張る、揺るぎない矜持の象徴です。

理屈ではなく、人として守るべき一線がある。 受け継がれてきた尊い文化を、自分たちの代で風化させ、価値を損なわせてしまうことは、あってはならない「ならぬ」ことである――。 私は今、その静かで強い言葉を自分自身に突きつけています。

私は、一介の表現者に過ぎません。行政の認定要件を満たすために奔走することも、数値的な目標を達成するために何かを動かす力も、私には持っていないのです。直接的にその仕組みに関わることはできずとも、表現者として、そしてこの地にルーツを持つ者として、守るべき誇りを心の中で守り抜く。その真摯な想いこそが、次の一歩を踏み出すための根幹になると信じています。

私は、今年も会津の土を正月には踏んでいません。 しかし、遠く離れたこの東京の場所から、会津の闇にいつか美しい光が灯ることを願い、想いを馳せています。この「条件付き継続」という判定を、単なる危機で終わらせるのではなく、私たち一人ひとりが会津の文化を改めて見つめ直し、その価値を再発見する、静かな再出発の契機にしたいのです。


結びに

皆さまの心の中にも、いつの間にか顧みなくなってしまった「大切な風景」や「守りたい物語」はありませんか。

形あるものは、いつか必ず姿を変えていきます。建物は朽ち、道は草に埋もれるかもしれません。けれど、私たちが想いを寄せ、語り継ぐ限り、その魂は何度でも、より鮮やかに生まれ変わります。

「現代影絵プロジェクト」は、二〇二六年というこの一年、会津の静寂にそっと寄り添いながら、光と影を通して、その目に見えない魅力を静かに、丁寧に描き続けていくことを願っています。大きな変革は起こせなくとも、一人のルーツを持つ者として、その美しさを「今ここにある物語」として伝え直していく。そんな小さな歩みを、大切に積み重ねていきたいのです。

不確かな時代、私たちは情報の濁流の中で大切なものを見失いがちです。だからこそ、私は揺らぐ光の中に、時代が変わっても変わることのない、普遍的な真実を見出したい。この「再興への願い」を、皆さまと共に見守ることができれば、これ以上の喜びはありません。

本年も、光と影の物語を共に紡いでいただければ幸いです。 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

二〇二六年一月 現代影絵プロジェクト 代表